昭和45年09月10日 朝の御理解



 御理解 第7節
 「天地金乃神は昔からある神ぞ。途中から出来た神でなし。天地は流行る事なければ終りもなし。天地日月の心になる事肝要なり。信心はせぬでもおかげはやってある。」

 天地と共に極まりなく流行ることもなく、終りもないという天地の働きそのものが私共の生活、いわば私共の働きに繋がって来る。天地と共におかげを受けていけれると、そういう例えば道を教えて下さってある訳ですね。ところが私共の人間社会と言うものはどういう事になって居るかというといわゆる流行ったり流行らなかったりと言う事に成って居りますですね。天地と共にと言う事では無い、いわゆる栄枯盛衰はもう世の習いだとさえいよいよ言う事になって居る。
 親の代には栄えて居ったけれども、子供の代にまたは孫の代には非人乞食をしなければならない、と言った様なそれがもう人の世だと。それが世の習いだと言う様な悲しい結果になって居る訳であるね、そこでなら金光大神はね、そう言う事であってはならないいわゆる親の代よりも子の代、子の代よりも孫の代とおかげを頂いて行けれる流行ることもない代わりに廃る事もない信心を教えて居って下さる訳なんです。
 ですから金光様の御信心を頂いて居るからみんなそうかと言うと矢張りそうではない。やっぱり栄枯盛衰というものがです、あちらはもうお父さんの時には一家中で信心しござったが子供さんの時代になったらピシャーット信心止めて仕舞うてと思いよったらもう後は後も動きもならんごとなっとると言った様な例が沢山有るのです。これも私が知っ取る限りだけでも。私が久留米に丁度七年酒屋の小僧時代ですね、小僧番頭時代に櫛原の教会に私毎日朝参りさせて頂いたんですけれどもね。
 そりゃもう大変なものでしたよね、あの頃は。けどもあの時分に信心が今に続いて居るという人は、もうほんとに数えるだけの様な感じですねえ。しかも今何処へ行ってござるやら分からん、と言う様な人すらあると言う事。だからね、初代のお徳に依っておかげを受けたと言う事が、金光様の信心を頂いて居ると、言う事ではないと言う事。やはり何処までも、教祖金光大神が教えられた信心を、私共が会得し体得しておかなければならないと言う事なのです。 
 そこで私はこれはもう一つの信心の基調ですね、信条信心の基調となるもの、それはここに一番最後のところに教えて居られます、「信心はせぬでもおかげはやってある」とこういうのですね、一番最後のところ。「信心はせぬでもおかげはやってある」それが信心が無いとそれをおかげとは思いきらない。天地の御恩恵に浴してないものはだぁれもない。皆天地の御恩恵に浴して居る。そういう意味もおかげはやってあると仰る訳なのです。けれどもそれ以上のいわばおかげをです。
 私共はおかげをおかげとは気付かず知らずに過ごして居る。信心さして頂いてそこのところをね、おかげをおかげと信心はせぬでも、おかげはやってあると仰せられる、そのおかげをおかげと、分からせて頂くところが信心の基調です。これが基調になるのです。これが土台になるのですね、そこのところをいわゆる時点としたもの、軸として信心が成長していって行かなければです、今日ここで頂く例えば天地と共に、極まりなくおかげを頂いて行くと言う事にはならんのですね。
 そんなら天地の親神様が下さって居る、おかげというおかげは信心はせんでもおかげは下さっておるおかげとは、どう言う事であろうかと、それはまあ誰でも一応説明を受ければ誰でも一応合点が行くのがいわゆる天地の御恩恵ですね、そういう大きなお徳の中に私共があると言う事を分かると言う事は同時にです、それからそのおかげのデリケートないわゆるデリケートなおかげ、微妙なおかげそれを一つ一つキャッチして行けれる、それをおかげと感じ取って行けれるね。
 そういう信心が基調になるわけです、基本になるね、そこからです私共はね、天地日月の心になること肝要なりと云う様にですね、いわゆる天地の働きをいわば小天地である私共がその侭に頂き又はそれをこなして行けれる生き方とね、いわゆる天地の道理に即応した生き方とでも申しましょうかね、しかも天地の真理いわゆる本当なこと、より本当な事、そのより本当なことを求めながらね、天地のいわゆる事訳道理いわゆる天地の法則、その法則に従うた生き方。
 より本当なといわゆるそれを天地の真理とこう言う。その天地の真理をね、頂き求めながら天地の道理に合うた生活をさせて頂くと言う事になる。そこに親の代よりも子の代と言う様な、繁盛のおかげを頂けれるがそういう、信心もその信心の基調となるものは、信心はせんでもおかげはやって有ると言う所にあるのですね、信心はせんでもおかげがやってあるという、それを今日私はデリケートに微妙なその、天地の働きを有難い有難いという、一切神様の言うなら神愛の現れであると、いわゆるおかげですね。
 と分からせて頂くという信心をね、さしてそこのところがやはり稽古である。なかなか一朝一夕に出来ることじゃありません。ところがね何十年信心頂いて居ってもそこが分からなかったり、おかげだけは頂いて居っても分からないところにです、ああお父さんの時代にはあの様であったけれども、子供さんの時にはもう信心もいわば、何処にいなさるか分からんと言う結果になりかねない訳です。ですからどうでも一つここの所をね、それこそ自分の心にたたみこんで行く体験、体験を以ってそれを実証して行く。
 そうだそうだと分かって行くと言う事ね。昨夜は久富勇さんのところの恒例の謝恩祭でございました。もうほんとに年々再々「有難いなあ」素晴らしい信心のまあ素晴らしい神様の眼からご覧になればどうか知らんけれども、まあ私が見てから信心ちゃ有難いなあと素晴らしいことであろうかと思われる様なお祭りが沢山な同志の参拝者を得てほんとに有難いお祭りが奉仕されました。お祭りが済んでお話を頂いた開口一番頂いたのがね、「松の葉の臭いこそすれ岩清水」という。
 ”松の葉の臭いこそすれ岩清水”それが開口一番の言葉でした。松の葉というのは私共は松に繋がるね、九州の祖である所の桂松平先生の御信心をね、受けに受け継がせて頂いて今日の合楽がここにあると言う事。いうなら松の葉のいわゆる桂先生が頂かれた信心のそれこそ香りこそすれ、例えば困ったとか難儀とか言った様な不具とか困ったとか言った様な例えば雰囲気と云うものは微塵もない、いわゆる信心の香りこそすれ例えば「はあ、立派な御新築が出来た、これはもう大変な盛大なお祭りが出来た」ね。
 「お庭が綺麗に出来た」と言う様なねものではない。むしろこの頃台風で痛みに痛みつけられた藁屋根ですからよう飛ばなかったと思う様な状態、中へ入ってみて成程信心の香りが隅々まで行き届いて居るという感じね、それこそ岩清水じゃないけれど懇々と湧いて流れて居るようなそういう信心の本当の生粋の有難さと云うものが家全体いや家族全体の一人一人の上に現れて居る程しのお祭り、そういう雰囲気の中にお祭りが奉仕されたと云う事であるね、「松の葉の臭いこそすれ岩清水」である。
 あちらから丁度四時の御祈念を終わらせて頂いた時にお迎えに見えとりました。迎えに見えましたからそれから用意してそれから必ず御神前に出てから「今日只今から久富勇氏宅の謝恩祭に参ります。お祭りに参りますがどう言う様な事を以って謝恩、どう言う様な事を以ってお礼のお祭りにさして頂こうか、いやおかげといや限りが無い、けれどもどういう所を焦点に置いて、広大なおかげを頂いて有難うございます、年に一回のこうしてお礼のお祭りが今年も奉仕される事を有難いと思う」というお祭りなのである。
 そしたらね、私ここで神様にご挨拶させて貰いよったら御心眼にね、あの甘露飴と云う飴がありましょう甘露飴、あの甘露飴というのは小さい丸いそれこそ宝石の様な粒の飴ですよね、その飴を右左にピットこう捻ったそしてそれに甘露飴と書いてあるね。私は、二、三日前に佐田さんが持ってきなさったのがあの甘露飴だったですけれど、飴なんです。それであれはね、甘露飴というのはちょっと引っ張ったら中からころっとその中の飴が転がり出るようなふうにしてある。
 だからそれは右左に捻ってあるね、おなじ右なら右だけに捻っちゃない。こっちは右こっちは左の方へこう捻ってある。ですからそれをちょっと引っ張ると中からころっと造作もなく中の飴が転がり出るように工夫してある。それを頂くんです。勿論甘露と言う事は信心をこれはお道の信心だけではありません。信心をさせて頂く者のね、これはもう最高の境地と言うても良いでしょうね、甘い露と書いてあるね、これは信心者だけにしか与えられない。しかも極めて行く人にしか与えられない心なのです。
 いわばお道で言うなら和賀心でしょうね。それこそ甘い露にも似たような有難いお恵を自分の心の中に頂くと言う事です。例えばお互い日日生活させて頂いて居りますてです、様々な事がございますね、例えば勇さんの場合の例をとるとね、あの一人男手百姓なさって居られるけれども時々そのしかも取入れに忙しいという時によう手が動かなくなったり痛んだりするような病気があるですねえ。かと思うとお参りして来る途中に事故に遭われると云ったような事もございましたねえね。
 言うならばこの頃から蒔かせて頂いて居った野菜が今度の台風ではもう跡の形もないごと無くなって仕舞うと言う様な事もやっぱありましたねえ。けれどもねちょっと眼を瞑って「生神金光大神様」と念ずるとね、昨日も「お父さん思うてみると広大なおかげですよ」と例えば家内が言うと主人も「ほんなこっちゃねえこういう中にでも神様のおかげを受けとるもんね」と話し合える、それが言い合える思い合えれると言う事「お前はそげん言いよるばってん、どうしてこれがおかげか」と片一方が言わんと言う事ね。
 それはやられた時その時ははっと言うならばまだ紙の中につかえて居るけれども、ちょっと引っ張るとちょっと日頃の信心に自分の心の中に生神金光大神様を唱えるともうそこにあるものは有難いものばっかりだと、甘露飴ね、そういう例えばおかげはです、人間のすべての人の上にそういう働きはあって居る訳なのです。そこからです例えばそれを世間では難儀という、困ったことだという。場合には悲しいことだ、なるほど悲しい事困った事ではあってもその悲しいこと。
 その困ったその事ですらも神様のいわゆる微妙ないわゆるデリケートな神様の働き、氏子幸せにせねばおかんという働き、そういうおかげ。そういうおかげをおかげと悟らせて貰う。信心はせぬでもおかげはそういうおかげはみんなの上に下さってあるのだけれども、これはおかげである、これはかげではないと選り分けをする。自分の都合の良いことだけはおかげと思うけど、又はああふがよかったと言うけれども、それと反対の事になると自分の様なふの悪い者があるじゃろうか。
 自分のような不幸せな者があるじゃろうかと言うて世を恨んだり悲しんだりする様な結果になるね、信心をして居ってもこれほど信心するのにどうしてこの様な事がと言う事になりかねない。そこをですね、信心はせんでもおかげはやってあるというそこのところをおかげとキャッチ出来れる分からせて頂けれるところまで信心をね、進めて私ゃだから昨日皆さんに申しました、せめてここまではおかげ頂きたいね、ここのところを一つ一線上にするならその上をです、私は昨日も例えば申しました。
 ここ四、五日そういう意味の事を頂いて居りますね、どうでもという願いに立つとか、ええ何でもの願いに立つとかね、それを願いに願い続け願い込んで行くと言う事ね、しかもその願い込んで神様にしがみつく様な勢いでおかげを頂いて行くと言う事がね、それは神様のお喜びだと。成程和賀心、和賀心と言う事にはもう願わんでも頼まんでもおかげが開けて来ると、これはもう定理です。もう定まったものです。ところが果して私共が二十年間なら二十年間も信心の稽古をさせて頂いたけれども。
 その和賀心というものがどういう状態になって居るのだろうか、相済まんことながらね。なれたりなれなかったり言うならなれなかたりなれなかったりというのが本当かも知れない。程しに私共のいわば心の中の状態と言うものがです、いわゆる天地日月の心になること肝要だと仰るけれども、なかなかその事に努めて来たけれどそういう、ならじっとしていてもおかげを頂ける状態になっていないことに改めて気付かせて頂いてね、やはりおかげを受けなければならない。
 そこでそんならばね、そのおかげをなら安閑として待っておると、自分の心がほんとにいわゆる甘露ですたいね、甘露のような状態和賀心の状態になるまでもうおかげは要らんと言った様ないわゆる裏と表のある心と昨日頂きましたね。心の中に欲しながらそれを要らんと言って居る様な信心ではなくて、心にほんとに実感して居るならば欲しいと思って居るならばその欲しいと思うて居るそのおかげのその内容を検討してみて願って行け縋って行けというでしたね。
 今ここに金がなからにゃ、ここに健康を頂かなければ、ここにこの様な麻の様に乱れた家庭というか人間関係の中にあってはね、本当のおかげにならん。そこで今年のスローガンでありますところの「世のお役に立たせて下さい」という念願ね、世のお役に立ちたい、立ちたいなら願わにゃいかん。そこに合楽の場合は世のお役に立たせて下さいというのはあれは祈りの言葉なんです。どうぞ世のお役に立たせて下さいね、お金でもお役に立ちたい、体でもおかげを頂きたいね。
 あらゆるものにおいて世のお役に立ちたいけれどもその健康もなからなければお金も無いと言った様な状態では世のお役に立つことすらも出来ない。それでは生きて生きがいが無いと言う事。大体申しますと信心のほんとの有難い心の状態というものはですね、あれはどなたでしたかね、一休さんか誰かの”要るだけは風が持て来る木葉かな”というのがあるね、私共はね、例えばそのそういう和賀心になることに努めていわゆる努めて居ればです例えばその努めて居れば出来んなりにもですね。
 努めて居ればです確かに必要なものは必要に応じて必ず下さる。それは最小限度ではありましてもね、ところが子供がこげんなからにゃ出来んでしょうが。お互いどうですかね、それが段々私はね、大きくなっていかにゃいけん。言うならば必要なものが必要な金が必要な事が必要に応じて頂ける程しのおかげを頂いて行くと言う事なんですね、まそういうちょっとした見本が私だと思うんですね、それはま皆さんがご覧になっている通りなんですね、ところがね私共はそれだけでは足りない。
 それだけでは出来ないね、そういう心の状態をです、例えば死ぬまいと思う心が疲れると言う様にね、こうならなければならない、こうしたいこう在りたいという願いを一遍捨てますとね、心がほんとに安らいでまいります。いわゆるまあちょっとした安心の境地が開けて来る訳ですね。子供はこげんなからにゃいけん、こげなって欲しいとではなくて、もうどうでもよいという心ね、神様に縋ってその事はもうどうでもよいと言う様な心の状態に今申しますようなおかげが頂ける。
 これはもう天地に中にそういう仕組みがあるのです。要るだけは風が持て来る木の葉かなね、だから所がです、金光様の御信心はそれだけではいけない「日に日に生きるが信心なり」日に日に生きるだけではいかん、その生きる楽しみ、生きる生きがいというものを私共は見い出さして頂かなくてはならない。その生きる生きる生きがいそのものが何かというとです、世のお役に立ちたいと言う事ですね、だから世のお役に立たせて頂くと言う事を生きがいとしての信心がそこから生まれてくる訳なんですね、
 そこで願わなければならないね、しかも願ったからはですもうお取次頂いとるけんそれで良いと言うのではなくてですね、それこそ願って願って願い抜いていくという姿勢なのです。どうでもこうでもという願いなんですね、ですからどうでもこうでもと言う願いを立てるからにはなら神様にもですね、昨日も久富さん所の教話の中でもですね、願うと言う事はね、神の願いと一致する願い、と言う事を頂いてますね。ですから世のお役に立ちたい、立たせて下さいと言った様な祈りというもの願いというものは。
 神様の願いと一致する訳なんです。そうでしょうが、その為には金が要るならば、金の事を一生懸命願えと言うのです。健康が要ると思うなら、健康を一生懸命願えと言うのですね、それがね、そういう例えば、なら熱烈なまでの祈りというか、願いというものが繰り返し繰り返し、それもしかもどうでもこうでも成就すること。昨日お祭りを仕えようとする寸前にね、あそこに猫が出てきたんですよ。はあ猫猫と私が猫を嫌うのは、皆さんもご承知の通りです。
 嫌うと言うのじゃないけれども猫を不浄というふうに頂いていますからね。しかもその猫があなた、御神前の北から南へすうっと抜けてしもうた。もう私の心の中にですね、一抹のそのいわゆる不安というか黒い雲が射したような感じなんですよ。お祭りを今から仕えようと装束着けてこうしちょるところへ猫がいわゆる御神前を誰もまだ私がまだ御神前に出る前にです、猫が横切ったんです。からすぐ心中祈念さして頂きましたらね、四神様二代金光様のみ教えにね。
 「お道でいう不浄とは成就せん事ぞ」という御教えがありますそれを頂くんですね、赤不浄とか黒不浄とかね、心の不浄いろんな不浄というけれども、そう言う事じゃあないと金光様の御信心は。願ったことが成就しない事が不浄ぞ、という程しに願った事が成就しないことを神様がお嫌いになると言う事です。お願いをした事が成就しない事を神様は一番お嫌いになる。してみると私共が願いを立てたらです、その願いがどうでもこうでも成就する事の信心姿勢というものを取らなきゃならない事が分かるね。
 どうでもこうでも、だからどうでもこうでもという願いを立てるから、あんたはそれだけ切実に願うなら、なら私もあんたに条件があると例えば神様が仰るなら、その条件を聞かせて頂きましょう、その代わりどうでもこうでもおかげを受けさせて下さいというところに信心の向上が有る訳なんですね、私共が願ったらその願いが成就しなければ、だからその願いというものがですね、言うなら検討させて頂いてね、この願いならば間違いがないという願いを立てなければならないことになってまいります。ね、
 私はねこの今日御理解七節から、どうでも一つ天地は流行ることもなからなければ終りもないと言われるなら、その天地を対象として信心させて頂く私共も天地と共に極まりなくおかげを受けられる、なければならないということを一つの限定としてですね、お話をして居る訳です。ところが実はこれは信心の世界以外のものでも、ですけれども、もう栄枯盛衰は世の習いのように言い慣らされてきておると言う事。
 お父さんの時代にはあの様に熱心な信心だったけれど、子供さんの時にはもう信心の気もないごとなって居ると言った様な、いわゆるお父さんの時代は繁盛しとったけれども、子供さんの時にはもう潰れてしもうとった、と言った様な事ではないおかげ。天地と共に私共、おかげを頂いて行けれる事の為に、先ず一番最後のね、信心はせんでもおかげはやってあると仰るそのおかげをね、おかげと先ず知らして頂く、分からせて頂く。それを私は昨日久富勇さんところのですね。
 ところで開いたせめてあすこまでは私の信心が出とかにゃいかんね、私はそれを二十年間がかりで一生懸命稽古してきたわけですね。いわゆる「和賀心、和賀心」と和賀心を求めてしかも道理の上にでも分からせて頂いたことはです、例え難儀と思うて居ることでもその難儀と思うておるその難儀は難儀ではなくて、それは神様の氏子可愛いというお働きの現れであると言う事が分かるというおかげ。そういうおかげをおかげと分からせて頂くそこの一線上に立って、今日の天地日月の心になる事。
 いよいよ肝要であるという信心ですね。いわゆる実意丁寧な信心をそこにさせて頂いてです、天地と共に極まりのない程しのね、おかげの頂ける基礎というものを私共が作らせて頂かなければならんと言う事。今日はとりわけ信心はせんでもおかげはやってあるというそのおかげを私共が信心して居ってもおかげと感じきっていないことではです、そこの上に立てられる、おかげがどの様な素晴らしいおかげであっても、それは砂上の楼閣にも等しいことになります。
   どうぞ。